神秘と浪漫の風 竹生島

竹生島
竹生島へ行ってみた
最高の秋晴れ 湖西道は紅葉真っ盛り 琵琶湖も波風立たず迎えてくれました
太陽の光を浴びて白く輝く湖面に早くも神秘を感じ おもむろにカメラのシャッターをきる 竹生島に着くまでもそのパワーを頂きたく形に残そうとする気持ちが芽生える
竹生島が視界に入ると 人はなぜ船に乗ってまでここに来るのか 今も昔も求めるものは皆同じだろうと考えながらの船旅 


湖岸から約6㎞の沖合に浮かぶ周囲2㎞の島は想像以上に神秘的な空気に包まれていた 祈りの階段に幸せ願いダルマ かわらけ投げと言った願掛けの場が設けられており何処にいても神がいると感じる  唐門・船廊下など秀吉の生きてきた証を感じながらもその背景には妻として夫を支えた寧々 母として奮闘した茶々がいる 信仰と共にそれぞれの思いが形となり戦国時代を力強く生き抜いた女性の神秘と浪漫の風が吹いていた

琵琶湖の北に浮かぶ 竹生島 は 伊吹山の神 多多美比古命が姪にあたる浅井岳の浅井姫命と高さを競い負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とした その首が湖に落ちて竹生島が生まれたという言い伝えがあります
また名の由来は「(神を)斎く島」「いつくしま」が「つくぶすま」と変じていったもので 島には宝厳寺本堂・都久夫須麻神社本殿・唐門・観音堂・船廊下・五重石塔・三重塔などがあります

歴史的には神の棲む島と言われ 宝厳寺は奈良時代724年(神亀元年)に聖武天皇の勅願で僧行基が都久夫須麻神社がある竹生島を訪れ堂塔を開基したのが始まりと言われています 宝厳寺は本尊の大弁才天のほか西国三十三所の第三十番札所 観音堂の御本尊である千手千眼観音菩薩が安置されています



祭神は 市杵島比売命・宇賀福神・竹生島龍神・浅井比売命の四柱で都久夫須麻神社は浅井姫命を祭神とする神社であり 浅井姫命は浅井の氏神で湖水を支配する水の神であることから 水の神である弁才天と同一の市杵島比売命も祀るようになりなした 神仏習合が進んで都久夫須麻神社は寺と一体化し竹生島大神宮寺や竹生島権現などと名乗り観音と弁才天信仰の島として栄えました

社殿は幾度の大火により焼失 1558年の大火で社殿が焼失した際には1602年に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として復興を命じ 都久夫須麻神社は伏見城の日暮御殿を移築 船廊下は豊臣秀吉が使用した御座船日本丸の船櫓 唐門は大坂城極楽橋の一部で豊国廟へ移築されたものを宝厳寺観音堂へ再移築しました 宝厳寺を復興した片桐且元は賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として豊臣秀吉に仕えた一人です
(1602年移築の記念に植えられたもちの木)
豊臣秀吉の妻 寧々 織田信長の妹お市の娘浅井の三姉妹 茶々 など戦国の世を駆け抜けた女性達の力で復興を遂げてきた竹生島 現代も昔も女性の力の偉大さを感じさせられる
秀吉の妻 茶々(淀君)は浅井長政とお市の子三姉妹の長女で誰もが知るところです 父長政は姉川の戦いで織田信長に 母お市の方は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に そして茶々は大坂の陣で徳川家康にそれぞれ滅ぼされました

茶々は母お市の方から「浅井姫の申し子」と言われた言葉を忘れること無く生まれ故郷の竹生島に強い信仰心を持ち続けていたのでしょう 浅井は滅びたがその血は徳川家・皇室へと継がれ 浅井の 弁才天の 力を感じる
浅井の姫 三姉妹は 戦国の世に翻弄されたのか 戦国の世を自ら天を動かそうとしたのか 数奇な人生であったのであろう 真意は竹生島の浅井と同様 神秘に包まれている

1868年(明治元年)「神仏分離令」により廃寺とし神社に改めよという令が下るが後に本堂の建物を神社に引き渡したことにより廃寺は免れ 大弁才天も1942年(昭和17年)に本堂が再建され現在の姿となっています
また竹生島は琵琶湖八景のひとつ「深緑 竹生島の沈影」として評価され その存在は神秘的で浪漫を感じさせてくれます


(竹生島)
唐門・・・・・・唐破風をもつ門  豊国廟から移築「極楽門」(国宝)
        (大坂城の極楽橋が豊国神社に移築・豊国極楽門を竹生島に寄進とある)
観音堂・・・・・豊国廟から移築(西国三十三所観音霊場第三十番札所)(重要文化財)
船廊下・・・・・豊国廟から移築 豊臣秀吉の御座船日本丸の船櫓(重要文化財)
都久夫須麻神社本殿・・伏見城の日暮御殿を移築(国宝)
(祭神)
市杵島比売命・・天照大神の子で水の神(弁財天・宗像大神)
宇賀福神・・・・財をもたらす福神
浅井比売命・・・初期から存在した唯一の神(産土神)
龍神・・・・・・八大龍王の一尊である黒龍























詳細は「竹生島 宝厳寺」HP/https://www.chikubushima.jp/ 参照
調査員 S・Y.投稿
2020年12月05日